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午後のかみさま 〜鴨川デルタ、宗忠神社 〜
2020年04月22日
桜を眺めていたら、シャボン玉が一つ落ちて来た。
遠く離れていた男の意識は現実に帰った。
京都市は左京区、宗忠神社の急な階段の両脇には、桜が咲き乱れている。男は階段の一番上に座って、しゃぼん玉を目で追っている。
しゃぼん玉は一体、どこから飛んで来たのか。当たりを見回してみたが、近くで子供が遊んでいる様子もない。
男は漁師らしく焼けた肌で、瞳は有明海の日に焼けて、やや灰色がさしている。まだ四十半ばだったが、年齢よりも老けて見られる事が多い。
とても穏やかな、春の日の午後のこと。参道に降る花吹雪の隙間に、主のいないシャボン玉がふわふわと彷徨う様は、どこまでも現実味が乏しく美しかった。
「かみさま」
と男は小さく呟く。そしてシャボン玉が弾けた後も、ずっと空を見ていた。
*
男の娘は京都大学の2回生で、下宿先は左京区にある。そう、風の噂で聞いた。本当かどうかさだかではない。娘とは17年前にわかれていて、それきり会っていない。
連絡先も知らず、偶然すれ違えるはずもない。17年も経ってしまえば、きっと他人になっているだろう。けれども押さえがたい衝動が胸にあって、九州から京都に来た。
4月の京都は花盛りの季節であった。どこも観光客で溢れている。左京区を当てもなく歩いてみようと思ったが、土地勘が無かったので、前夜、宿泊しているゲストハウスのオーナーに尋ねた。
「左京区は広いですよ」と宿主は言う。「それでも、下鴨神社とか、京都大学とか、あの辺りが左京区の中心のイメージですね」
「左京区は、学生の街なんやね」
「ええ」と宿主は頷く。「それから…」
「それから?」
「左京区はどこか、人に優しい場所ですよ」
そうして、男の1日は下鴨神社から始まったのだ。
下鴨神社の手前に鴨川が二手に分かれる場所があって、鴨川デルタと呼ばれている。河原に降りられるようになっていて、市民のいこいの場所になっている。出町ふたばで豆餅を買って、河原の適当な石の上に腰をおろせば、確かに、左京区が学生の街と知る。
水辺の近くでは、花見をしているグループがいる。芝居の練習をしている者もいる。カップルのような男女もいる…。みな学生なのだ。
男は水面の近くにいて、出町橋という小さな橋を見上げる格好になっているわけだが、今、薄紫色のシャツを着た学生風の少女が、自転車に乗って、橋の上を西から東へ、京都大学の方向へと通り過ぎようとしていた。少女は、急に自転車を橋の上でとめた。そして思い出したように顔を上げて、遠く東の空の方を、一瞬凝視した。少しだけ笑ったようにも見えた。何があるのかと、男も東の空を仰ぎ見ると、そこには晴れ渡る青空の下、五山の送り火で有名な大文字山があって、新緑の山肌に、大きな大の字が見えた。
ああ、これが京都なのか。これが娘の暮らす左京区なのか…。と男は深く深呼吸をした。
銀閣寺周辺や、哲学の道の桜はやや散り始めていて、狭い川面を花びらで埋め始めていた。流れの緩やかな川に、無数の花びらが降り注いだ結果、川がピンクに染まって絨毯のようになっている。
散策している観光客の会話が聞こえる。
「この川が花びらで埋まった状態を、京都の人はなんと呼ぶと思う?」
「さあ、なんでしょうね」
「花筏(はないかだ)って、呼ぶらしいよ」
「へぇ、確かに、乗れてしまいそうね…」
人混みを避けるように、あてもなく白川通を北から南へ下っていると、吉田山という小高い丘があり、「真如堂」と書かれた看板を見つけた。うろ覚えだったが、確か、真如堂あたりは、宿で出会った京都好きの人に勧められた場所だ。静かな場所だと言う。
左に入って、少しばかり坂を登ると高台の開けた場所に出た。真如堂は朱色の門に、立派な仏塔をもつお寺だった。真如堂を背にして真っすぐ前を見ると、白石の鳥居と、急な階段が遠くに見えた。そして鳥居の先は桜のトンネルになってた。誘われるように階段を上がると、宗忠神社に辿り着いた。
男は階段の一番上に腰掛けて、一息入れた。遠く階下の桜並木の向こうには、真如堂の三重塔、背景にはやはり大文字山が望めた。一服着けると、ゆっくりと煙を吐き出し、穏やかな心地でいた。
お前が暮らす左京区が、どこか優しさのある場所で、良かったよ。京都の桜は本当に美しかね。覚えておらんやろうが、お前が数年を過ごした九州の柳川だって、桜ん美しか街やったんやぞ…。
男の暮らす福岡県柳川市は、筑後地方の南西部にあって、有明海に面した小さな街だ。海苔漁をはじめ有明海に仕事を得ている人も多い。また水郷としても有名で、船頭が櫂一本で船を操る川下りが盛んだったりする。
まだ若かった男が、漁場から早く戻ったある日のこと、当時2才だった娘と二人で、近所を散歩する事になった。
昼間、観光客で活気ずいていた三柱神社や船着き場の付近も、日が傾き始めて人影もまばらになっていた。櫂一本でせわしなく水路を川下りしていた船頭たちも、今は空になった船を桟橋に寄せて、ぼんやりと葉桜を見上げていた。
春の午後の匂いと、しっとりとした娘の掌と、細くはねる後ろ髪と…。娘の紺色のTシャツは、何度も潮風にさらされて色あせ、紫色になっていた。
前だけを見ている娘はどこか硬い表情で、男の手を強く引いて、水路から水路へ進んで行く。気ままな散歩、という感じではく、先へ先へと急いでいるようでもあった。
桜の枝をよけて、時折、春光に目をくらませながら歩いて行った。途中、顔見知りの老婆とすれ違い、
「お父しゃんとデートと? 良かねぇ」
などと声をかけられても、娘は振り向きもせず、ずんずん歩いて行った。そういえば、家を出てから一言も発していない。
歩いて歩いて、やがて、二人の前に有明海が大きく開けた。海に出て、娘はようやく表情を崩し、満足げな笑みを浮かべた。
「そうか、海に来たかったんやなあ」
有明海は今、夕暮れの始まりにあって、落ち始めた太陽があたりを染め始めている。春の光は、薄く海水を張った干潟と一つになって、遠くの水平線を曖昧にしていた。
影絵になった二人は、手をつないだままで、海を見ていた。少し冷たい風が出て来た。風が娘の前髪を乱したので、男はしゃがんで、娘の前髪を耳にかけた。
「しゃぼん玉、好きやろう」
男は家から持ってきたシャボン玉を吹いた。大小のシャボン玉が、不規則に吹く浜風にあおられて、右に流れたり、左に流れたりした。娘ははしゃいで走って、シャボン玉を割って遊んだ。空へシャボン玉が上がった時は、その体と、その両手を目一杯のばして、空を掴もうとした。
風が止んだ。ひときわ大きなシャボン玉が出来て、ゆっくりと、ゆっくりと、何か言いたげに空へと舞い上がろうとしていた。
天に心が吸い込まれそうな、琥珀色の有明海の空の下で、水晶のようなシャボン玉と、西に沈みかけた太陽の円周が、ほんの一瞬、完全に重なった。重なって、新しい球体が、二人の目の前に生まれた。
その刹那に、
「かみさま!」と娘は空を指差して叫んだ。「ほら、かみさまや!」
シャボン玉と太陽の邂逅は、短いものだった。しかし、虹を含んで、まるで生き物のように回転するシャボン玉と、全てを照らし出す太陽が、何か不思議な引力でもって解け合うのを、見た。
「ほんとや…。かみさまやねぇ」
と男は小さく呟く。そしてシャボン玉が弾けた後も、ずっと西の空を見ていた。
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